独逸発! あや太郎新聞

欧州での9年に及ぶ様々な経験を得意の毒舌を生かし、斜め左から書き綴っていきたいと思います。そして私が小学生のころ、学級新聞として書いていた「あや太郎新聞」をここで復活させたいと思います。

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ここ数年、毎年のようにドイツ鉄道が値上げをしたために、乗り合いヒッチハイクのサイトで同じ方面に移動する人を募って車で乗り合いしてガソリン代を割り勘にする移動方法を取る人たちが静かに増えてきている。

これは大体の場合、携帯電話で運転手に連絡を取って、席が空いていたら待ち合わせ場所を指定してもらって乗り合わせて目的地にまで運んでもらう。以前、オランダに頻繁に出かけていた時によくこの方法を利用していた私だが、ここ最近は時間に余裕が無くて寧ろ列車移動の方が多かった。

だが、久しぶりに節約してみようと、フランクフルトからベルンに向かうのに、途中のフライブルグまで15ユーロという設定の乗り合いが存在したので利用する事にした。(今回はフランクフルトからベルンまでの乗り合いが存在しなかった。)

待ち合わせ場所のフランクフルトのガールスヴァルテ という所に行くと、すぐに赤いフォルクスヴァーゲンが目に入った。お陰ですぐに待ち合わせた運転手を見つける事が出来た。

今回は運転手のカップルがミュルーズというフランスの街まで移動するのに便乗して、途中のフライブルグまで乗せてもらう設定だった。

二人とも名前は忘れてしまったが感じのいいカップルで、今までの乗り合いでは気難しい銀行員だとか、実は嫉妬深いテラピストや、出発直後から延々と喧嘩を始めるカップルなんかとも乗り合わせた事がある分、今回の二人の雰囲気の良さに私は内心ホッとしていた。

車はマイクロバスで、中にはなんと台所が設置してあった。
後で分かった事だが、二人はアクセサリーの販売などをしながらあちこちを渡り歩いているジプシーさながらの放浪ヒッピーだった。

移動途中のダルムシュタットでもう一人の乗り合いのメンバーのカロリーヌが乗ってきたのだが、なんと彼女は先週まで研修でイランに居たそうで、かなり大き目のバックパックと、ぱんぱんに荷物を詰めたボストンバッグで車に乗り込んできた。

彼女は車内を一目見て、このカップル達が自分と同族だと見抜いたらしい。
彼女が色々とこの移動生活型マイクロバスについて質問しているうちに、カップルが、

「私たちは住所はベルリンに申請してはいるけど、実はこの車に住んでいて、移動しながら生活しているの。」

と話し出した。大学を卒業した頃から放浪を始めた様なのだが、初めは自転車でキャラバンを組んで時期を決めた移動生活だったのが、思い切ってこのマイクロバスを買って、車内で生活出来るように改造してからは、もう3年も放浪生活を続けているそうである。

今、私とカロリーネが座っている後部座席をずらせばベットになるそうで、さらに天井についている板を延ばせば2段ベットにもなると言う。最大で4人で寝泊りしていた事もあるというからかなりのツワモノヒッピーだ。

内装も良く見ると、私が以前住んでいたヒッピーアパートでも良く見かけるインド綿の布で装飾されていて、見れば見るほど雰囲気にヒッピー臭が漂っていた。

類は友を呼ぶと言うが、私もヒッピーアパートに住んでしまってから、自然にこの世界の人たちと関わりが増えてしまったのかもしれない。

さらにカロリーネ自身が放浪好きな若者で、今まで彼女自身も仲間と車でインドまではるばる旅をした事があるそうだ。カップルたちもインドを訪ねた事があるとお互い盛り上がっていたから、あそこにはヒッピーの聖地があるのかもしれない。

カロリーネの友達には4月にベルンから自転車キャラバンで出発して、バルカン半島を抜けてトルコに入り、今はイランに達している・・・というヘビーな人もいるそうだ。

そういえば、去年、たまたま引越しの関係でヒッピーアパートに1ヶ月戻っていた時に、アパートの地下で自転車のメンテをしている人を見かけたのだが、かなり本格的な自転車だったので、

「どこか遠くに行くの?」

と訪ねると、フランクフルトからポーランド、ウクライナを抜けてロシアに入り、そのままウランバートルを抜けて中国沿岸部か朝鮮半島からフェリーに乗って、最後は日本までたどり着くキャラバン隊を計画していた。

ベルリンのロシア総領事からやっとロシアの滞在許可証が届いたから、早晩出発するという事だったのだが、あれは9月に出発だったから、よく考えるとロシアで冬を越さなければならない旅だから相当ハードだったんじゃなかろうか。

ストリートミュージックをしながらの旅だと話していたが、東欧ではそれほど金になりそうもないし、上手く日本までたどり着いたのだろうか。

それにしてもどれも魅力的な話だ。
カロリーネもたまに大学に戻って同級生達に旅の話をすると皆、羨ましがるそうなのだが、みな口を揃えて、

「いつか時間とまとまったお金が出来たら私もやりたいな!」

と言いはするが、実行する所まで行った人はいないらしい。
それで大学に戻っても、他の人たちとはいまいち感覚が合わなくなって、退屈でまた彼女は旅に出てしまうらしいのだが、

「いつか、じゃなくて、やりたい事は今やらなくちゃ!!若い時にしか時間は余ってないんだから!」

と言うのが彼女の理屈らしい。やり始めてしまえば放浪生活は実際、なんとかなるそうだ。

放浪生活で重要なのは必要最低限のものを選別して持っていく事だが、初めのうちは何が最低限必要なのかの判断が出来なくて無駄な荷物を沢山持ち歩いてた、とカロリーネにつられてカップルも話し始めた。

「でもね、始めた頃は2年が限度だと思って始めたこの放浪生活も、いつの間にかもう3年も経っていたんだよね。どうも中毒性があるみたい。」

という話だった。移動生活が多い私にはなんとなくわかる気もする。

実際、自分自身も移動生活に追われている方が何故か活き活きしている時が多い。

見知らぬ土地ではじめて会う人たちとその生活を知る事はいつでもワクワクさせられるが、いつまでも出来る事では無いのも確かで、それだからこそ、その時間が輝いてしまうのかもしれない。

彼らは完全な「放浪性ヒッピー」だが、カロリーネはどうも「半放浪性ヒッピー」の様だ。たまに大学に戻って研究生活もしているらしい。

この分類だと、あの、私が以前住んでいたアパートにいる連中は「定住性ヒッピー」だ。

しかし、今は「定住性ヒッピー」の、当時の同居人のマルクは、以前はヒッチハイクで日本やブラジルを横断しているから実は「旧・放浪性ヒッピー」だった。日本では長距離トラックの運ちゃんたちがとても親切で、家に招待されて色々美味しいものを食べさせてもらったと以前、話していた。

そういえばインドでは人生の一過点に放浪期というものがあると考えられていると昔、どこかで読んだ。
もしかしたらアーリア系の性なのか、ドイツでも失恋などを期に放浪に出かける話が歌曲などで歌われている。

日本人でも、以前、モスクワの空港で長時間待たなければいけない時に何となく話かけた人が、まとまった期間働いて、そのお金である日、ブラッと旅に出るのが趣味だと話していたから、島国で農耕民族とはいえ、放浪ヒッピー気質の人はいるようだ。

ハシリとしてはそもそも

「旅に病んで 夢は枯野を 駆け巡る」

と時世の句を詠んだ松尾芭蕉が挙げられるだろうか。

そういえば、この間知り合った著名な音楽家の方も、自転車で長距離ツーリングするのがかなり本格的な趣味だとおっしゃっていた。モーゼル河にそって延々と旅をしたり、黒い森を横断したりなさっているそうだが、何と言う偶然か、カロリーネが昔、この方に楽器を師事していたという。やはり、類は友を呼ぶのである。

歌曲に歌われるぐらいだから、人は誰もが、どこか放浪生活に憧れているのだろう。

実際、欧州には本物の定住しない放浪する民であるジプシーが存在するし、時を遡れば狩猟、採集生活をしていた奴らだから、どこか体に放浪生活に対する憧憬が染み付いているのかもしれない。

そうえいばヒッピーアパートの前にある草原にも、一時期、サーカスのキャラバンが生活していた事があった。
彼らはヒッピーアパートから電気や水をもらって生活していたいたらしく、旅立つ時に水と電気代を支払いに来たが、何台ものキャンピングカーに、ガチョウやロバなどの家畜まで連れていたから、あれは真性の放浪ジプシーだったかもしれない。

私はお腹が弱いので、あまりこういった大きな夢は見られないが、放浪とは言えないけれども、いつかドイツから鉄道を使って日本まで旅してみたい・・・などと夢見てはいる。


















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今回、値段の関係でモスクワ経由にて日本に飛ぶ事にしたのだが、トランジットの為にモスクワで17時間の待機時間を過ごさなければならなかった。

17時間が半端なく長いというのは元々予想していた事だけれども、よりによってここがモスクワである為に17時間もあっても出来る事がほとんど無い。

まず、ロシアはフリーパスと言われる日本国旅券で入国できない数少ない国の一つだ。
滞在許可を取得しないといけないから、空港から外に出る事が出来ない。噂に聞くクレムリンや赤の広場でウラーと叫びたかったとしたら、事前に領事館に滞在許可を申請しなければならない。

それは飛行機から降りた時に間違えてトランジットでは無く、入国手続の窓口に行ってしまった時に、係員のお姉さまに
「なんで滞在許可が無いの?」

と問い質されたので、やっぱ本当に駄目なのかとそれまで「まさか!」と半信半疑だった私は実感した。

それからトランジットの窓口で再びセキュリティーチェックを受け、空港内ホールに入ると到着したのが夜中の3時だと言うのに未だにDuty Freeの店などは煌々と営業中だった。

それにしても歩いていて思ったが、ロシア人で笑顔を見せる人は未だに少数だ。

深夜のはずなのだが何故か目が覚めてしまっていたので、弟に頼まれたオーデコロンを物色したり、マトリューシュカの相場などを格店で確認して時間を潰しているうちに眠くなってきた。
しかし眠りたいのは山々だが、ここは露西亜だから、うかつに油断して眠るのも心配だ。

どこかで上手く睡眠を取れないか場所を物色していると、空港の端っこの方に先ほどから中国語をしゃべる人たちが集まっている。彼らがあまり大きな声でしゃべらないのと、割と態度が大人しく、さらに中国語の発音が比較的平坦だった為、

「これはおそらく香港か台湾人ではなかろうか」

と私なりに目安をつけていた。彼らは流石はおおらかな中国系というか、露西亜にいるというのに堂々とベンチで眠りこけていた。
(ここら辺で日本人に割合近い台湾人では無さそうだと少し思った。)

ここでこの中国系に混ざっておけば、見た目は一緒で区別がつかないだろうし、周りはいかにもなブランド物を身につけた中国人だ。
その中で私はいつものスリ対策で全身、靴もあわせて5000円も行かないような格好だったので、スリがいたとしてもリッチそうな別の人を狙うだろうと検討をつけ、近くにそれっぽく座って混ざりこみ、少し仮眠を取らせていただく事にした。

そもそも普段から中国人に話しかけられたりする私だから、混ざって自分ひとり浮く事は、安っぽい服装にも関わらずまるで無かったが、一度目覚めて暇をもてあました時にパソコンをいじっているのを隣の人が不思議そうに覗き込んでいた。

「あれ?日本語じゃん?」

と思ったかもしれない。

そのうち彼らが搭乗口に向かって移動し始めたので、「実際はどこの地域の人たちだったんだろう?」と行き先を確かめたら、意外なことに香港でも台湾でもなく上海だった。
中国は長江から南は文化が違うと聞いているが、随分、北京辺りの中国人と雰囲気が違うものだと思った。
長い事、国際的な大都市だからなのか比較的洗練された雰囲気だった。

この辺りで大分時間がたったと自分では感じていたのだが、実際はまだ朝の7時で、私の飛行機の出発時間はなんと夜中の20時である。まだあと11時間もある。

以前、それこそ上海で5時間のトランジット待ちをした時も暇すぎてヒューマンウォッチングをして楽しんだが、流石に17時間はヒューマンウォッチングをするにも訳が違った。それでも既に4時間も潰せたじゃないか!と思い直し、少し移動してみる事にした。

飛行機に乗った時から思っていたが、ロシアは美男美女が多い。カッコいいお兄さんも数度見かけたが、どんなにカッコよくてもユーリーだとかドミトリーだとかウラジーミルとかいう名前で、私が今まで知り合った露西亜人たちと同じ様な性格をしているんだろうと思うとそこからさらに観察する気にもなれなかった。

どうも東欧人のメンタリティーが私は外国に出た時から苦手で、それがなんと今まで尾を引いてしまっている。

彼らの何がいやかと言えば、一言で言えば「隙あらば!」という感じで、例えば演奏会での控え室で、

「皆さんで自由に食べてくださいね!」

と主催者が用意してくれたフルーツを一人で3つ4つ食べた上に、さらに5つ6つ鞄に入れて持って帰って後から来た氷魚Tには何も残されていない・・・・というような状況を作り出すこと。

どうも彼らに譲り合いの精神があまり無い様に見えるのだが、不思議な事に、知りもしない他人にはそんな感じの彼らだが、一度知り合ってみるとものすごく情に厚い。

偏屈な私がそれでも友達になれた数少ない東欧人たちは、私が本当に困った時などに相談すると、自分の事などすっかり忘れて何としてでも助けてくれるという事が何度もあった。

だから私は一般的に東欧人は苦手だと思ってはいるが、そこをクリアして仲良くなった人たちは長年交流を保っていたりする。

極端な話だけれども、旧東ドイツのオーケストラで研修生をしていた時、何もわからないままドイツの辺境の町に一人でやって来た私にとって、彼らの情の厚さには実際、何度も助けられた事があった。

寒い冬の日に演奏会からの帰りに同僚が自宅まで車で送ってくれた時に、万が一、扉が開かなかったりして凍えたりしない様に、部屋の電気が点くまで外で確認してくれていたり何て事が当時よくあった。
今は変な気候が続いているからどうだかわからないが、その頃チェコの国境に近い東ドイツの冬はマイナス20度に簡単に達するほど寒かった。

言ってみれば、寧ろ日本人の方が、自分を犠牲にしてまでは中々他人には関わらないスタンスだったりするので、(これは特に音楽家の間で共通するものではあるが。)当時は冷たく感じたものだった。

しかし最近、おそらくはジェネレーションの違いによるものが大きいだろうけれども、16人共同部屋で住むようになってから、東欧人の悪い所の方が寧ろ目に付いて今までよりも苦手意識が育ってしまった。

16人共同となると、多人数であるがために一人一人との関わりが薄くなるから、共同部屋の中でエゴイスティックに振舞う人が必然的に多くなる。
大概の人間があまり知らない間柄だと、次に使う人の事、一緒に住んでいる他人を思いやったりする意味を失うようなのだ。

それで台所を使った後、綺麗にするとか、何人も共同で使うのだから、混んでいる時はうまく譲り合うとか、共同のものを壊さないように大切に使おうとする意識は必然的に低くなる。その程度が西欧人に対して東欧人の方がさらに低い気がしてならない。余裕が無いのかもしれない。

アジア人でも一部、「汚す」という事で有名な国の方が別の共同部屋でごくたまに問題を起こしているのを耳にするが、彼らのは国での習慣に基づいて悪気無くやってしまっているので、上手く(彼らの面子を潰さないように)伝えれる事さえ出来れば、改めて綺麗にしてくれる事もある。

対して東欧の連中はそこは

「どうせ他の人が汚すから一人で綺麗にしても意味が無いじゃん。」

という諦めモードにすぐに入ってしまうので、言っても無駄になる事が多い。
彼ら東欧人の特徴に「諦めが早い」というのは絶対に入るだろう。おそらく共産主義を経験した年代では特に多いだろうが、どんなに努力しても変えることが出来ないものがあるという経験を積みすぎてしまったのかもしれない。最後まで諦めない!という姿勢は希である。

あとは大雑把なやつも多いので、

「後はウォッカでも飲んで騒いでおけば、大抵の事は解決するのさ!」

と思っている可能性も高い。

なので私の東欧人に対する感情は言ってみれば複雑だ。

それにしてもどうしてこんな条件のモスクワ乗換えにしたのかと言えば、既に一回試しているのが大きいが、普通だったらモスクワという中間地点でのトランジットになるために、上手くいけば乗り継ぎ便にしては時間のロスが少ない事だが、しかし今回などはその利点が無い分、やはり安さだった。それに前回、乗った時に意外だったのが、結構機内食が美味しいのだ。

しかし17時間の待ちはやっぱりキツかった。うかつに爆睡でもしたら、そこはおそロシアの事だから、財布や持ち物がなくなりそうで恐ろしかった。これだったら南回りで23時間かけたりした方が機内で安心して爆睡出来る上に、南回りはリッチな産油国が多いから、荷物の重量規定などが甘くて良かったかもしれない。

何度か食事や仮眠をとりつつあと4時間という所に来たので、今まで居たホールを出て搭乗口に向かうと、新しく建て増しした空港の建物に続いていて、今までいたいかにもロシア!という空港ホールに比べたらどこもかしこもピカピカでバーガーキングもある。さらにそこではフリーでネットが使えるのに気づき、ネットさえあれば17時間を過ごす事などどうって事無かったのに!!と今更気づいた私は大きなショックを受けた。

さらに途中の待合ゾーンでは絨毯がひかれていて、横になって寝転ぶ人も多かった。

そこからやっとの思いで東京行きの飛行機に乗り込んだが、どうも安さのせいか、外人や日本人という違いに限らず、ヒッピーぽい姿の人や、いかにもバックパッカーな風体の人が多かった。
どうもヒッピーアパートでいつか共同生活をしてから、だんだん私自身がヒッピー文化に染まりつつあるのかもしれない。






私がドイツの大都市に引っ越そうとした時、私は部屋探しの段階で既に大きな問題を抱えていた。

そもそもこの大都市は部屋探しが難しい事で有名で、誰もが10数件見て廻ってやっと入居できる状況だと聞いていたし、私自身も見つかるまで14件ぐらい物件を見て廻ったと思う。

最後に郊外にあるアパートを訪ねたのだが、そこはある家族が借りているアパートのうちの1室で下宿するタイプの部屋だった。値段は探している中でも一番安く、田舎の小さな村でそれまで暮らしていた私は、寧ろ郊外に住んだ方が大都市の中に住むよりショックが少なかろうと思ってここに決める旨を伝えた。

大概、部屋を貸す方でも幾人か候補を見て絞って一緒に暮らしていくのに合いそうな人に決める為に、入居したい旨を伝えてもその後決まる確率は決して高くない。

この時は私自身も14回目だっただけに、半ば諦め半分で入居を申し出たと思う。

ところが色々あって、結局ここに決まる事になった。

元々ここは米軍が駐留していた時にその家族が暮らすために建てられた建物で、米軍が移動して空いた建物を安く貸しているらしい。

どういう経緯でそうなったのかは知らないが、ここに住んでいるのはどうもヒッピーばかりだったので、私はヒッピーアパートメントと呼ぶことにした。

ここはどの部屋も1家族と下宿人などの構成で集団生活している様で、この家族の所にも不定期に劇団員の青年マルクスが訪ねてきたり、サーカスが目の前の広場にテントを張って電気をここからもらっていたり、これからユーラシア大陸横断に出かけるキャラバンみたいなヒッピーたちが泊まりに来たり色々あった。

近所もヒッピーだから、仲良く夏にはバーベキューを中庭で企画したり、キャンプファイアーみたいに火をおこして、それを囲んで子供たちも含めてみんなでお食事したり、誰かがギターを弾いて歌ったり、絵に描いたようなヒッピー生活だった。

地下には洗濯機が置いてある横の部屋に彼らの自作のバーがあり、生意気にもピアノが置いてあって生演奏も出来るようになっていて、土曜の夜などにパーティーをしている事もあり、どうにも怪しい匂いが漂ってくる事もあった。

ここに私は合計1年ほど住んで、その後も用事がある度に訪れたりしているのだが、一緒に生活するとどんなにマイペースに生きていても何かしら影響は受ける。

私は大学から音楽大学に入って、ずっとクラシックの世界で生きてきたが、ここでまるで違うヒッピーの世界と接点が出来たのだった。

ちなみに私が一緒に住んでいたヒッピー家族は両親と子供二人の家庭で、今は3人目が生まれて男の子3人の賑やかな家庭になっている。

ヒッピー家族たちと暮らしていて、良かった事もあり、腑に落ちない事もあり。

良かった事は、ヒッピー達の生活力の強さや「なんとかしてしまう力」と寛容な所を学んだ所。

壊れたものや使えないものを、何か工夫する事でなんとか乗り切ってしまったり、フリーマッケットやe-bay で最低価格で必要なものを手に入れたりする技術はすごい。

例えば壊れた同じ製品をほとんど捨て値で2つ買い集めて来て、壊れてない部品を組み合わせて1つにして直してしまった挙句に、それをフリーマーケットで売って何倍もの価値にしてみたりなんて事はお手の物だった。

そしてその仲間内でのネットワークというか助け合いの精神とその寛容さも、クラシック音楽界で生きてきて、少しでもいいものを持っているとぶんどられてしまう・・・みたいな経験を若いうちに何度か重ねてしまい、猜疑心と警戒心にまみれた私には非常に新しい経験だった。

しかしそれでもあのヒッピー親父とは何度も意見を戦わし、分かり合えない所はいくつかあった。

(ちなみにドイツ人は議論が大好きで、小さい頃から議論する習慣を教育の中で見につけていく。
異なった2つの意見をぶつけつつも、どこで妥協点を見つけて、異なりつつも共存していくという技術を身につけているように思う。)

例えば一昨日、私たちはブラジル人のお客さんが来ていたので、ブラジルに関する話題をしていた。

私はブラジル人の知り合いは以前に住んでいた黒い森の小さな村で主に知り合った人ばかりなのだが、彼らは何故か全員が歌手で、そのうち一人はかなり特別な人生を歩んできたという話を聞いたことがある・・・とヒッピー親父に話していた。

カルロス(仮名)というその人は、どうも他のブラジル人によると元々ストリートチャイルドだったらしい。

その彼に宿る並々ならぬ歌声を見抜いて牧師だか誰かがドイツに連れてきたそうだ。

しかし驚くべき所はそこではない。

まず、彼は今までに2度結婚していて、2度とも離婚している。

一度目は学生時代に知り合ったドイツ人の女性で、離婚はしたものの、その時にドイツ国籍を取得したらしい。

2度目の結婚がその小さな村では有名だったのだが、ある男性と結婚した(奴はどうもバイセクシャルのようだ。)のだが、その男性に二人で住もうという事で家を買ったか建てさせた。

その男性は親の援助のお陰もあり、近くの町に家を建てたそうだが、どうも家を建てる時の書類などがわかりにくかったのか知らないが、それらを彼に代わって全部カルロスがやったそうだ。

最終的に彼が気づいた時には、家の権利が何故カルロスの名前でだけ登録されていて、離婚した時に共同財産として処理されるはずのその家は、カルロスにまんまと騙し取られてしまったという。
家を建てるお金はその男性が一方的に出資していたという話だった。

そういう訳でトロ村では彼の話は「2度の結婚でドイツ国籍と家という、彼の欲しいものを全て手に入れた男」としてよくネタにされている。

実は私もこの話はかなり以前に一度聞いていた。

2度目に聞いたのは村での共同部屋での同居人のユーリー(仮名)からだったが、それは新しく共同部屋に入居していたシュテファン(仮名)という小汚い男を、私やもう一人の同居人のカトリン(仮名)がいまいち好きになれず嫌っているのを見て、

「あいつはかわいそうな奴なんだよ・・・」

と話し始めて、私はその家を騙し取られたホモの男が、なんとその同居人のシュテファンだという事を知ったのだった。

シュテファンは小汚いだけでなく、少し壊れていた。

彼がものすごく孤独なのも一緒に住んでいたから、なんとなくわかっていた。

実はその前に住んでいた別のルームシェアの同居人の赤毛のダニエルの所にも彼はよく出没していて、ちょっと親切にするともんのすごく喜ぶ事からもそれを私はなんとなく感じ取っていた。

だからユーリーから話を聞いて寧ろ彼の状況が納得できた。

その話をいわゆる伝説としてヒッピー親父に話し、

「だから他のブラジル人も、『彼の有名な噂のせいでこの村ではブラジル人の印象が悪いんだけど、彼が特別な人なんだよ!全く困るよ!』とよく話していたんだよね。」

と言うと、ヒッピー親父は何を勘違いしたのか、

「だから僕は君にいつも言っているじゃないか!国籍でこの人はどうだとか判断するのは間違いなんだよ!」

と説教しだして私は

「は?そんな話じゃねーし。大体そう判断してたのは一般の村人で別に私個人じゃねーし!」

と、なって場がめっちゃくちゃ白けた。

だから

「別にそんな話ないじゃん。ただ、この人のある意味サクセスストーリーがすごいねって話じゃん。」

と勿論言い返した。

流石にどっ白けた場の空気はこの親父でもわかったらしくその場はそこで収まったが、そもそも昔からこの点でこの親父と私は完全に意見が対立している。

私は前にもこのヒッピー親父がもう一人の同居人の韓国人の子が自分たちとコンタクトを取ってくれないので理解できない、と話していた時に、

「私は韓国人と対する時は、最も日本に見かけも地理的にも言語的にも近い国なだけに、寧ろどういう所で違うのかを知っておかないとお互いにものすごい誤解が起こってしまうのですごく気をつけている。似て非なるという言葉そのものだ。 」

という話をした事がある。つまり、彼女には彼女の価値観があって行動している訳だから、別にヒッピー親父が考えているように彼を嫌っている訳では無いのだと言いたかった。(実際はかなり苦手には思われていたが。)

その時もこのヒッピー親父が、

「そんな事言ったって、人はみんな一緒だよ!何人だからどうとか考えるのは間違っている!」

と言い張って話にならなかった。 彼の正義感の琴線に触れるテーマらしくしこたまうざかった。

私がドイツに始めて来た時、周りは韓国人留学生だらけだった。

彼らの中で勉強を始めて、初めは色々誤解してかなりのストレスを感じていたが、そのうち彼らの行動様式を知っていくにしたがって、事前に対処できる問題が増えて、その後は普通に韓国人の友達も増えてきて今はすごく仲の良い友達が数人いる。

それまではドタキャンは多いし、個人的に知り合うまでは相手を人間扱いしないし、友達という関係が日本人に比べて妙に密度が高いしで結構困った事が多かった。

韓国人の友達の側にしても、日本人は表裏あって考えている事と言う事が違うし、仲良く付き合ってても親しき仲にも礼儀があるから難しく感じる事はあると言っていた。

それ以降、私は育った環境や価値観が違う以上、その違いを知った上でなければ相手を友達として理解した事にはならない、というスタンスだ。理解した上で相手の世界にリスペクトを持って接すればよい。

寧ろこの親父の「人類みな一緒」という、いかにもヒッピーの単純な発想をこそ、白人文化圏の傲慢のなせる業だと思うのだ。

そういう浅はかで馬鹿な白人が大概、イスラム文化圏で自分の国と同様に振舞って宗教警察のお世話になったりするわけだ。

挙句に 厚かましい事に

「21世紀の世の中でそんな教義を守りぬくほうがおかしい」

と発言する事すらある。

そんな態度のどこに相手の国の文化に対するリスペクトがあるのか。自分たちの価値観の押し付けじゃないのか。

もし私の例えがわかりにくければSSと略される団体のの行っている活動について日本人としての立場から調べていただければ私の言いたい事がわかると思う。

白人たちがかつて鯨油欲しさに鯨を乱獲して絶滅寸前に追いやった挙句に、今は鯨やイルカは頭がいいから日本人たちが食べるなんて残酷だと抜かす。

私は以前、ドイツの農家にも下宿していたが、その時に庭で飼われていた豚だってかなり表情豊かで頭はいいと思った。誰が豚を食べてよくて鯨は駄目だと決めたのか。気の毒な漁師さん達が我慢しているのをいい事によその国にまで来て自分達の正義を振りかざす彼ら。

ヒッピー親父と彼らの困った共通点は、なにやら彼らの正義感に燃えてそれを絶対的な正義だと信じきっている所だ。正義なんてものはそもそも相対的にしか存在しない場合がほとんどだ。

だから私には他人の文化に土足で入ってきて、自分たちの価値観を主張する事が正義だとはどうにも思えない。
そもそも相手の国の文化の成り立ちや気候、環境、宗教や習慣をきちんと知ろうともしないで自分達の主張を押し通そうとするのはいかがなものか。

また困った事に彼らこのSSの母体だったGだとかWとかいう偽善団体もヒッピーは大好きだ。どうも機関紙まで取っているようだ。

きっと何か共通して彼らに訴えてくるものがあるのだろう。

そういえば以前、ヒッピー家族の所にイスラム教徒の家の子供が遊びに来ていて、豚肉が食べれないので一緒のものを食べられなかった事があった。

その時に私がヒッピーに

「なんでイスラムの教義では豚を食べてはいけないのか知ってる?」

と話した時もまるで私が差別主義者である様な目を向けてきた。実は豚肉を食べる事が出来ないなんてナンセンスだと思ってはいる様だったから私の言葉を誤解したのだろう。

そもそもイスラム教徒が豚肉を食べないのは、彼らが遊牧生活をしていた大昔、火を使わずに獣の肉を食べる場合、豚肉は雑菌があまりに多すぎて食中毒で命を落とす危険が多かったから、「豚肉は不浄のもの」として忌まれてきたのが戒律に変化したのだ。

現在でも生豚肉が原因でO157などによる食中毒で命を落とす人が出ているのはよくニュースで見かけるではないか。

彼らの先祖がどういう生活をしていたかに繋がる彼らの文化だ。

それを全部説明した。でも親父は何故か興味なさそうだった。 ナンセンスだと思っているのだろう。

どうも、そんな立場で言う「人類皆兄弟」なんていうのは、私の狭い価値観には全然受け入れられない。
私の大嫌いな偽善臭がぷんぷんしてくる。

まあでも、白人というのは昔から何度もそういう文化侵略をやってのけてきていて、例を挙げるにも数が多すぎるほどだ。

十字軍やイスラエルの建国からしてそうだから、自覚するしないという大切なポイントはとうの昔に過ぎてしまったのだろう。自分が正義だと思っていないとアイデンティティが崩壊するのかもしれない。

日本で言えば生麦事件でのイギリス人たちとアメリカ人との対応の違いなどがわかりやすい例だ。
大名行列を下馬せずに横切ったイギリス人は薩摩隼人に成敗されてしまったが、そういう文化があると知っていたアメリカ人は大名行列を見かけたら道の脇に立って帽子を取って敬意を表す様にしていたため、そんなトラブルに見舞われることは無かった。

彼ら欧州人に

「もしかして俺らがやっている事は間違っているのではないか?」

と自省する習慣が1ミリでもあれば大分世界は違っていた様に思うが、欧州でそういう習慣をもつ人間は貴重でこそあれ、マイノリティとして不便を強いられているようにすら見える。

とにかく、いくら議論してもヒッピー親父とこの点に関してどうにも意見が交わる事が無いのである。

ましてや自分自身が異国の地で異国の文化を吸収して努力を重ねてなお、

「なんで日本人なのにヨーロッパの古楽なんてやってんの?」

などといわれる身分であるだけに、なんか割り切れない気持ちを感じる。




yama 2

12月に入る直前辺りから私の生活はほとんど休み無しの上に、ホステルに連泊してよく眠れなかったり、夜行列車で移動しなくてはならなかったり珍しく多忙を極めた。

ところが最後にクリスマスに小さなかわいい教会で演奏させていただいて仕事納めをしたら、パッタリと休日がやってきた。

とりあえず初めの二日間ぐらいは好きな事だけしようと思い、パソコンで前から気になっていた情報を追い掛け回したり、部屋を掃除したり、街に出かけてサボテンを買って殺風景な部屋に緑を取り入れたりしていたが、実は私は前からこの休みにやるべき事を実は溜めに溜め込んでいた。

*まず修士論文のための楽譜の清書と前書きの用意。

*部屋の片付けと整頓。

*オーボエの材の加工、内職

*楽譜の整理と製本

*来年度の各種連絡事項と日程決め

*未だに焦げ付いている各種支払いの催促

などなどだ。読まなければいけない資料や手紙類もある。全部ドイツ語だから決心がいる。(それでも苦手な英語じゃないだけどれだけかなりマシだが。)

それに加えて忙しい最中におろそかになっていた体力づくりも取り組みたい。

忙しいといえど、やってる仕事は数を数えたりたまにオーボエだかオーボエ・ダ・カッチャだかイングリッシュホルンだかを吹いてるだけだから、自覚があるくらい体力は落ちている。

さらにケチケチ根性を発揮しすぎて一時期忙しいのも相まってあまり栄養も取ってなかった。

それで疲れやすくなってきていたのをエネルギードリンクを飲んで無理やり回復させて誤魔化していたら、今度はカフェイン中毒みたいになってきた。 カフェインなしでは作業に取り掛かれないのだ。

これはいくらなんでも流石にまずいので、まずは友達とサウナと温泉に行きカフェインを抜く事にした。

ご近所さんから近くにいいプールがあるという情報ももらったから近々泳ぎにも行くつもりだ。

さらに自宅から遠くに見えている山にいつか登ってみたいと思っていたのだが、山登りもスポーツだ!と思い、このくそ寒いのに登ってきた。

これが中々しんどかった。最後は足がぶるぶるしてきた。

いつか帰省した時に富士山にも登ってみたいと常々思っていたが、あんな小さな山ですら死にそうになるんだから富士山は基礎トレーニング無しには無理だろうとここで自覚した。今のままでは高尾山がせいぜいだろう。

登りが凄まじくきつくて汗まみれになった。山の傾斜が激しい所では踏み出す一歩一歩に疲労が滲み出た。

とはいえ、少しでも足を踏み出せば少くとも少しは前に進む!頂上に近づくんだ!!と根性モードで乗り切ったが、流石に帰宅してから疲れがドッと出た。

帰り道は雪が凍り付いて滑りやすくなっていて危険な事もあり、登山電車を使うか悩んだのだが、4ユーロもするからケチな私には乗れなかった。

それでも山の空気は綺麗だったし、街を見下ろす景色は絶景だったし、いかに体力が落ちているのか自覚するには覿面だった。

これが一昨日の話なのに未だにスネが筋肉痛なくらい体は鈍っていた。

私がゆっくり登っていると、ほぼマラソン状態のおじさんなどが追い越して言ったが、彼なんかは日常的にトレーニングとして登山してそうだ。 春になったらまた私も再び登りにこようと決意した。


それにしても年末だというのに部屋が片付かない。こればかりは今まで成功した事が無いからどうしようもない。とりあえずファイルして書類を分類するという事を始めてみたから、来年度は今までよりも少しはマシにはなるだろう。

そういう訳で、クリスマス・ジルヴェスターの休暇を一人で寂しく過ごすのではなかろうかと心配してくれたヒッピー家族(以前、下宿していた家族)から「遊びにおいでよ!」とお誘いがあったのは中々嬉しかったのだが、案外やる事が多いし、久々に家でゆっくり出来る時間が出来て嬉しいので、このままここで作業を終わらそうかとも思う。

この共同アパートの地下の練習室もクリスマス休暇のお陰で空いていて練習し放題だ。

ちょっと面倒なのがご近所さんで、台所とトイレとシャワーを共用していて、自治みたいになっているのだが、みんなが帰省して全体数が減った分、個々の付き合いが密にならざる得ない。

しかし、彼らが仲良く映画なんかを見ていても、私はそこまでの時間は無いので付き合えない。
そろそろ付き合いの悪いやつと思われていそうだ。

それでも妙に多国籍でレバノン人やマダガスカル人がいたりして、この間はタジキスタン人が訪ねてきてレバノン人とイスラム教の信仰の深さに関して議論したりしていて面白い時は面白い。

この間はアルコールを飲むか飲まないかで議論していたが、レバノン人のモハメドは相当敬虔なイスラム教徒らしく、アルコールは飲まないし、豚肉以外もきちんと宗教的な処理をされた肉以外は食べない。
しかし水煙草はいっつも喫んでいるから「ストレス溜まってんじゃないのか?」と突っ込まれていた。

タジキスタン人とは私は

「タジキスタンてどこだっけ?」

という話から始まったが、

「あれ?サッカーで日本と同じグループにいなかったっけ?」

とふと思い出して「そうじゃん!」と話があったのはいいが、この間、実は8対0でぼろ負けさせてしまった相手だとすぐにその場でパソコンで検索した為に判明してしまった。川島がやたら暇そうにしていたあの試合だ。

「でもね、そのせいで話題に上がって、タジキスタンが震災の時にたくさん援助のお金を送ってくれたって皆知るようになったんだよ!!」

とフォローしておいたが、

「でもそれは日本がそもそもタジキスタンに援助してくれたからお返しなんだよ。」

と言っていた。それは私も知らなかった。

そんな感じで自宅で割りと引き篭もったような生活にも見えるが、年末は中々楽しく自宅で過ごせそうだ。

山の上の景色

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つい先日、ちょっとした野暮用でエストニアに飛ばなければいけなかったのだが、飛行機以外にも飛行場への移動など全部あわせて17時間の強行軍であり、出発前から体力的な不安は頭を掠っていた。

そもそも私は飛行機が結構苦手で、上がったり下がったりの気圧の差にやられて降りてから頭痛になる事が今までにもしばしばあった。

気圧の変化は飛行機に限らず、以前、住んでいた黒い森の奥地の村でも、天気の変わり方が激しすぎてよく頭痛を起こしていた。そもそも気圧の変化に弱い方なのだろう。

さらに出発日の前日の夜、なんだか喉の痛みが消えないと思い、生姜湯など飲んでいたにも関わらず、当日は喉の痛みも去ることながら関節痛。明らかな風邪の症状を呈していた。

そうは言っても私も今更引き下がれるような状況ですら無かったので、薬局で揃えられるだけの薬を揃え、結局エストニアに飛び立ったのだった。

思い出したら今までも確か2回ぐらい経験していたのだが、この時も、飛行機が降下を始めてしばらく経った時に、なんか変な感覚がした後、耳抜きが全く出来なくなった。

夏に日本に帰国した時も一度同じ状況になって焦ったが、今回も飛行機がどんどん高度を落としているのにつばを飲んでも、あくびをいくらしても耳抜きが出来ない。

だんだん耳が圧力で痛くなってきて、微量ながらあくびで少し空気が抜けるようなのでずっとトライしていたが、結局着陸した時には左耳がギンギンした状態で所謂、急性難聴の状態だった。

それでもあまりに楽観的な私はしばらくすれば治るだろうとタカをくくっていたのだが、結局次の日も一日中難聴状態で音楽に携わる私にとっては致命的な状況で、大事な用事に多大な影響を及ぼした。

しかし過ぎたことは仕方が無い。

問題は、この状況のまま、また帰りの飛行機に乗らないといけない事だ。

今回、私は体力に自信が持てなかったので、予定自体は無理をしないように組んでいたので、用事を済ませた次の日の朝6時出発の便もあったのだが、1日休んで次の日に飛ぶ便を選んでいた。今思えば幸いだった。

実は難聴だけでなく、風邪もひどくなってきていて、結局2日間、宿泊をしていた典型的過ぎるほどの安ホステルで寝込むことになった。

空港へのアクセスがベストだったのでここを選んだのだが、8qm も無いくらいの一人部屋で、シャワーとトイレは共同。壁は異様に薄くて隣からロシア語ががんがん聞こえてくる。

食事は近くのスーパーで何か仕入れてきて、これまた共同の台所で炊事する最も宿泊費が安いタイプ。

しかしこういう安宿も今までにユースオーケストラのプロジェクトなどで何度も経験した挙句に平気になってしまったので、今では宿で若者たちとの交流を楽しんだりもしている。

しかしなにしろ風邪なので、朝食すらついていないホテルを選んだのは判断を誤ったと思わざる得なかった。

それでも素晴らかったのは部屋でインターネットがやりたい放題だった事だ。

さっそく帰りの飛行機を変更する事を決め、現在住み込んでいるヒッピー家族に連絡。どうも耳鼻科に行かないとまずい旨をメールで伝えると、いい耳鼻科が無いか調べておいてくれるという。

さらに自分の難聴の状態がいったい難なのかWIKIで検索して大体予想を立て、どうも頭を高くして安静にしていないといけないという結論に至る。と、いうのも、耳の中に水が入っている感覚があって、横になるとそれがひどくなるのだ。

しかし頭を高くして寝るというのは中々難しい。悩んでいるうちに寝込んでしまった。

それでも帰る日までに耳の中の水や違和感は大分減り、鼻スプレーを用意して万全の状態で飛行機に乗り込み、離陸の時も着陸の時も一心不乱に耳抜きに集中しただけの事はあった。

今回のフライトでは無事に耳抜きを達成し、何事も無く着陸する事が出来た!!

そして荷物のレーンに向かう為にエスカレーターに乗っていると、人を押しのけて前に進んでいく奴がいる。
私の目の前のおじいさんを突き飛ばしたのでイラッとして

「おい、そんなに急ぐなら階段を使え!」

と怒鳴ったら、その時の自分の声があまりのオカマ声なのにびっくりした。
今度は喉がイガイガしていて声が変になっていた・・・。

まあ、飛行機が上空にいる時は機内の湿度は40パーセントを切ったりするぐらいだ。
乾燥のせいで喉をやられたんだろうと思い、ヒッピー宅についてお茶を飲んで眠りについたまでは良かったのだが、次の日目が覚めたら今度は声が出なかった。

何が困るって、内科と耳鼻科にすぐに向かおうと思っていたのに、声が出ないから診察の予約の電話も自分では出来ない状態だった。

それでもヒッピーのおうちに間借りをしていたのがラッキーで、ヒッピーお母さんが親切にも代わりに電話して予約を取ってくれた。内科のお医者さんは以前にもお世話になった事があり、ヒッピー家族から教えていただいた親切なお医者さんで、問題は無かったのだが、耳鼻科医が大変だった。

知り合いに聞いたり、ヒッピーお父さんが以前、友達を連れて行ったというスペイン系の名前のお医者さんを当たったりしたのだが、どうもいい医者に当たらない。

初めに言った医者は朝の8時に来いと言っていたくせに、いったらまだ医者は来てないし、診察する前に代金の10ユーロを払おうとしたら50ユーロ札では両替できないという。

お陰で医者が来るまでの1時間、町で50ユーロをくずせる場所を探す羽目になったが、朝の8時では喫茶店も何も開いていない。パン屋で50ユーロ出たって崩してくれるわけが無い。(ドイツでは。)
散々歩き回ってBIO Shop みたいな所でパンを買ってなんとかお金を崩したが、そもそも風邪で具合が悪かったので実にしんどかった。

さらに医者も最悪だった。いくら私が声が出ないとはいえ、ささやき声の私が言おうとしている事を聞きもせず、

「音楽で生活しているので耳をやられたら致命的なんです。聴力検査をしていただけませんか?」

と3度も交渉したのに聞き入れても利いてもくれず、鼓膜をみて鼻スプレーを処方されて返された。3分も診ていなかったと思う。

流石にこれは無い!と思い、処方箋薬局でもう一度

「私はどうしても聴力検査をしたいから、誰かいい耳鼻科知りませんか?」

と尋ねて別の所を紹介されるも、そこも休診。

ちなみに処方箋薬局の人はとても親切で、声が出ない私の話を一生懸命聞こうとしてくれた。
医者と大違いである。耳鼻科医だったら、喉頭癌などで声帯を切除してしまった人を相手にする事だってあるだろうに、そういう人たちの話もあんな風にしか聞かないのだろうか。

仕方ないので家に戻ってヒッピーお父さんにもう一度、別の友達に教えてもらった耳鼻科の予約を取ってもらったが、幸運な事にその日の午後に予約が取れた。

それで行って見たら待合室に通され、しばらく待っているともう一度受け付けに来てくれという。

何かと思えば、なんと私の保険が国立だから、もう一度予約を取り直せという。後でヒッピーお父さんに聞いた所によると、どうも私立の保険の方が払いがいいそうで、そっちを優先する為にこういう事を言い出す医者は結構いるという。

しかし、私にしてみればわざわざ40分かけて耳鼻科まで出かけた挙句に予約を取り直せとは馬鹿げている!
風邪でフラフラなのになめてんのか!!なんでせめて電話でそれを伝えておかなかったんだ!と大きな声で普段なら抗議していただろう。しかし、いかんせんささやき声しか出せないではないか。

それにしても腹が立ったので、

「別の医者に行くからもういいです。10ユーロ返してください。」

と言ってまた家に帰った。その帰り道に歌手のカロリーネにSMSで事情を話し、職業柄耳鼻科には詳しいだろう!と誰か知らないか聞いてみると、お勧めの女医さんがいるそうで早速教えてくれた。

またヒッピーお父さんに帰って頼んで予約を取ってもらったが、耳鼻科をめぐってこの日は病気なのに一日歩き回って疲れきった。ただ、声が出ないというハンデのせいで、いちいち帰宅してヒッピーお父さんに頼まないと予約出来ないのには参ったが、ヒッピーお父さんを初めとして、色んな人が私の声になってくれた。

初めにバス停から耳鼻科への道がわからなくて困っていた時も、初めに聞いた女の人が、彼女もわからなかった
からと言って、私の変わりに何人も別の人に聞いてくれた。

薬局の人も一生懸命聞こうとしてくれてありがたかった。

こういう経験をすると、私も同じような障害に悩んでいる人を見たら助けないといかんな!!と思わされた。
当たり前の事が出来ないのは、それが簡単に出来てしまう他人にはわかりづらい事だけれども、だからこそ出来る人がやってあげなくちゃいけないのだ。

ちなみに次の日の朝、尋ねたその女医さんは私の事情をこと細かくメモして、聴力検査は元より、鼓膜の聴力検査もしてくれて、まだ鼓膜の圧力が取れていないので意識して鼻を通さないといけない事、とはいえ聴力は職業音楽家に見られる一部音域の難聴も診られず、寧ろいいという事をきっちり説明してくれて、さらに声帯が炎症を起こしていて声が出ないので1週間は安静にしてないと駄目だと診断してくれた。

これでこそ医者だわー!と思ったが、たどり着くのは中々至難の道だった。

それに聴力検査で問題が無かった事で大分落ち着けた。

女医さんは私が音楽をやっていると言ったので、初めに声が出ないのを見て

「もしかして声楽なの??」

と心配していたが、何しろオーボエ吹きなので別に声が出ない事は私には不便ではあるけれども、ものすごい悲劇では無かったのだが、とにかく聴力だけは心配だった。その旨を伝えたので全部検査してくれたのはありがたかった。

ただ、少なくとも1日、耳鼻科を探して町を彷徨っていた為に大分疲れたらしく、次の日に訪れた内科医には

「なんで抗生物質与えたのに全然良くなってないの?!何してたの??」

と怒られた。全部耳鼻科のせいだと説明したかったが、この長い話をするにはささやき声は不便すぎた。

医者選びは重要だと思い知った今回の一件だった。

ちなみに大抵の人は私が声が出ないとわかるとじっくりと聞く姿勢になってくれてありがたい思いをしたが、抗生物質を呑み始めて4日目あたり、少し治って声が出るか出ないかの頃、私は外人局を訪れなくてはいけない用事があった。

最も外人にとって融通の聞かない場所がこの外人局なのであるが、流石にここではささやき声でいくら話しても

「聞こえないわよ!!」

と一喝されるだけなので、私は治りかけのガラガラ声で無理やりしゃべる他なかった。

それもまた不幸な事に、アポイントメントのダブルブッキングがあったらしく、いつもの担当官ですらなく、こわもてのおばちゃん担当官だった。

ああだこうだとその担当官に例のごとく何でドイツにいるんだなど追及されながらガラガラ声で答えていたら、流石に鬼の目にも涙であったか、

「あなた風邪なの?随分ひどいわね。」

などと言われた。このおばちゃん、後で思うと、飴と鞭を上手く使い分けて終始おばちゃんペースで上手く話をまとめていて、実はかなり有能な外人局担当官なのではないかという気がした。
必要書類を全て提出し、問答を終えるとぐったりと疲れを感じたが、部屋を出て待合室にいる別の外人たちに

「いやー、いきなり怒鳴られたりして大変だったよ。」

と話すと、

「その部屋の人はまだマシな方だよ。あっちにいる男の担当官は、まさに地獄の使者みたいに最悪なんだよ。」

とよく外人局に来ているのか詳しそうな女の子が教えてくれた。

そうは言ってもこの数十分で一気に病が悪化した気がした。

エストニアの教会







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